初めての銀歯の話。
みなさんこんばんは。ケンコウです。
奥歯が銀歯になりました。
昨年、仕事に追われ多忙な毎日を送っているとき、突然「ガリっ!」っと口の中に違和感が。
吐き出してみると白くて固い何かが、それは明らかに歯。
しかし鏡を覗いても、どこが欠けてしまったのかわからず、「まぁいっかー」と無視していました。
そこから数か月たち、今年の頭。オムライスを食べているときその悲劇は起きました。
「歯が、痛い…」
ふわふわでとろとろなオムライスですよ、そこには優しくて幸せな空間があるのに、歯が痛い。尋常じゃなく痛い。目の前にはキラキラ、歯はズキズキ。心臓の鼓動に合わせて痛い。
口の奥を覗いてみると、奥歯の真ん中にそれはもう大きく深い穴が開いており、なんかもう見るだけで痛い。確かに奥歯穴あいたなーとか思ったけどめんどくさくて無視してた自分が憎い!こんなになってたなんて、見て見ないフリをしてたよ僕は!
これはやばいと思い、すぐに歯医者に駆け込む。予約無しでは基本受診できないところなのですが、あまりの疲弊っぷりにご厚意で診てくださいました。
歯を見た先生が一言、「あー、神経まで喰ってるね。神経削って銀歯だわ」と。
それからと言うものの、神経取るために歯をゴリゴリされて歯茎が死んだり、神経に直接麻酔打つ時の、あの細い針がグッと貫通して刺さる瞬間の激痛と感触とか、それはもう言い尽くせないほどの戦いがありました。
そんなこんなで昨日、長かった診療が終わり無事奥歯が銀歯になりました。
初銀歯だったので、「どうなるかなー」って心配だったのですが、いざなってみるとなんら変わりないですね。
それでも、今まで歯に何も異常がなかったものですから、メンテナンスを怠るとこうなってしまうのだなーと反省しました。
今身体が壊れたのもメンテナンス不足といえばそうなるんですけどね。けど当時、身体を休めたり、メンテナンスをする余裕があったと聞かれれば、そんなものありませんでした。今回の歯医者も、仕事の合間をぬって通うとなるととても時間がかかって、しんどかったと思います。
じゃあどうしたらいいのかというと、壊れる前に早めに気づくことが必要なわけで。それでも、自分のことで一生懸命な時に気が付くことは不可能だと思います。だからこそ、周りの人の支援が必要なわけで。会社の同僚でも先輩でも、友達でも家族でもいいんです。
でも結局は自分でなんとかしないといけないじゃないですか。周りがどうこう言ってもその人が行動を起こさないと何も変わらないんです。
それでも、周りの人は声をかけ続けることが必要だと僕は思います。その人が大切なら。とにかく話を聞いて、寄り添い続ける。その人が煙たがっても、気にかけ、離れないくらいの気持ちが必要だと思います。
高校の時に仲良くしていた友達がいて、大学の時あることをきっかけに離れてしまうことがありました。それでも、すっと想って、後輩から話聞いたりとかしていたら、去年久しぶりに再会することが出来ました。
そしたら何も変わらないですよね、その時の軋轢とかやり取りとか、全部もう無し!しかもあのとき声かけてくれたの、嬉しかったって言ってくれて。素直に嬉しかったです。
壊れてしまってから、改めて作り直すことは難しいけど、諦めてはいけないなーと、そう思った出来事でした。
今大変で、余裕がないときこそ、フッと周りを見て、自分の状況と周りの存在に目を向けることが出来たいいですね。
なんでこんなこと言うかって明日会社に行かないといけないんです。先生を偉い人と面談なんですよ。緊張で死にそう。やだ、行きたくない。気分が落ち込んでしんどいです
でも心配してくれる人のために、明日行きます。やだー行きたくないよー。
みなさんも明日の学校、会社、頑張ってくださいね。では。
素敵なおじさんになりたい。
昨日の記事の内容酷すぎて笑った。どうもケンコウです。
深夜に投稿するもんじゃないね。。と言いつつ深夜投稿です。
素敵におじさんになりたい話をします。
私は今23歳なのですが、見た目なのか、雰囲気なのか現年齢より上に見られることが多いです。
高校生1年のときに入った飲食店でタバコ吸われるか聞かれたこともあるし、お仕事は何ですかって聞かれたこともある、それくらい老け顔?です。
大学に入ってからはよく27、28歳くらいに間違われて、間違われ方が妙にリアルでショックでした。そんなに疲れてるように見えるのか俺は。
極めつけは、社会人一年目の去年。お客様宅に伺い、仕事をしているときでした。
ちょうど「9.11から15年」みたいな特番が放送された次の日で、その場にはその家に住むおばあちゃんとその娘さん、僕と先輩がいました。話は自然と9.11へ。あの頃どうだったーとか、もう15年なんて早いーとか話していました。
娘さん「ちょうど夜勤をしていて、テレビを見ていてこれは映画か何か?って思いましたよー」
先輩「あーそうでしたね、現実とは思えない映像でしたからねー」
お茶を飲みながら話をします。お客様とのコミュニケーションも立派な仕事。僕もうんうんと相槌を打ちます。
そしてその娘さんは私に向かっておもむろに問いかけます。それは一片の疑いもない真っ直ぐな問いでした。
娘さん「ケンコウさんもそとき働いていらしたんでしょう?どうでした?」
働いていらしたんでしょう?
働いていらしたんでしょう?
おいくつでした?ではなく、働いていらしたんでしょう?
ケンコウ「8歳…でした…」
おばあちゃん「えぇぇぇぇぇぇぇ」
入れ歯が外れそうになるくらい仰け反るおばあちゃん。うっかり介護が必要になるところでした。
いやいや、驚きたいのはこっちですよ。だって働いてたのですかって、20歳で働いてたとしても35歳ですよ。35歳って。先輩爆笑。会社に戻った後もみんな爆笑。いや笑えないって。35歳って。
でも最近思ったんです。これは得なんじゃないかって。
今20代後半に見られるわけじゃないですか。なら実年齢が上がっていけば、顔に近づいていくってことですよね。でもみんなと違って、顔は昔もままなんですよ。
みんなは「若い→老ける」の流れに対して、僕は「老ける→老ける(変わらず)」なわけですよ。
上から下への変化は顕著なのに対して、下から下への変化はわかりづらいんです。
ということは、年齢が上がるつれ、若く見られるのではないか…!
30代で「えー若ーい!全然見えないー!」って可愛い女の子たちから言われることが出来るのではないか…!
それは夢が広がるではないですか!おいそこ!年齢が上がるにつれ同じ速度で顔も老けるとか言わない!そこは考えないことが重要だ!
可愛い女の子たちからそう言われるためにも、私は素敵でおしゃれでダンディーなおじさんにならないといけないんです。仕事が出来て、物腰柔らかで、スーツとヒゲが似合うおじさんに。
そのためにも働いて、身体、治さないとなぁ…(遠い目)
目指せ英国紳士。では。
外国人によく道を聞かれる話。
みなさんこんばんは。ケンコウです。
今日は乃木坂46から見るアイドル論について書こうと思っていたのだが、どうしても話したいことが起きたため、明日にしようと思う。
私は外出するとよくおばあさん、もしくはおじいさんに話しかけられる。たいてい道を聞かれるのだが、ほとんどの割合で理解してくれない。もしかしたら私の説明が悪いのかもしれないが、精一杯やっている。身振り手振りを交えて説明する。しかし通じず、だいたい一緒に着いていくことが多い。「いやいやいや、そんなの迷惑かけるから~」と言ってもらえると思いきや、だいたい「そうかい?ごめんね~」と即座に受け入れるのはなんなのだろうか。最初からそのつもりなのだろうか。
一度だけスーパーで野菜の良し悪しについて相談されたことがあるが、すみません、僕には良くわかりませんでした。
ちなみに外国人にもよく道を聞かれる。よく使う駅の最寄に有名な観光地があり、「ドウヤッテイケバイイデスカ?オシエテプリーズ!」と声をかけられる(って言っている気がする)。
恥ずかしながらほとんど英語が話せないので、拙い英語と身振り手振りで説明する。身振り手振りは国境も年代も越える。非言語コミュニケーション万歳。
なんとか伝わっても、外国の方は不安な表情をする方が多い。笑顔でありがとうと言っていても、慣れない土地で疲労の色が伺える。
そんな姿を見ていると、やっぱりここでも案内をしてしまうのだ。たいした距離ではないため、「カモン!レッツゴー!」と言った方が早い。案内中は短文と単語を駆使してどうにかこうにか会話を繋げる。もう必死だ。外国の方も感謝からかやたらと話しかけてくるため、余計に会話が弾んでしまう。有難迷惑とはこのことだ。
そんなわけで私はよく声をかけられる。ちなみに占い師には「人生に疲れたあなたを占う」と言われたことがあるし、キャッチには「メンズエステについてアンケートをお願いします」と1日に同じ人から2回言われ、ホストには「ホスト、どっすか」と適当に声をかけられたことがある。おまえら誰でもいいのか。
あと、スカートがめくれている女性にもよく遭遇する。もう両手では数えられないくらい遭遇している。
ラッキーと思うじゃん。羨ましいと思うでしょ。でも私は思うのです。あの女性がこのまま、外を店や外で醜態をさらし続け、見世物になっていいのか。彼女はその事実にいつか気づくだろう。慌ててスカートを直し、周りからの目線を気にしながら足早にそこを去るのだ。しかし彼女は、どこでどうなって誰にナニをされているのかを、いくら考えようとも知ることはできないのだ。
そう思うと、なんか可愛そうじゃん?ラッキー!って気持ちより、なんかいたたまれないじゃん?気づいてるのに見過ごすの、なんか申し訳ないじゃん?
だから私はそういう時、声をかけるようにしている。もちろん私ではなく、女性店員や道行く女性にお願いをする。だって男から声かけられたら、恥ずかしいし気まずいと思って。もちろんお願いされた女性も女性で気まずさはあると思うが、申し訳ない、頑張ってもらうしかないのだ。醜態をさらす彼女のためにも。
そんなわけでこんなラッキーなハプニングも、私は多く経験するのである。
そしてここからが本題だ。今日も私は街へ買い物に繰り出した。微かに雪が降る寒空の下、人ごみの中を進む。買い物客や観光客で賑わう街は、人で溢れていた。
その時、ふと前を歩いている集団に目が留まった。男女3人組。楽しそうに話している。
だが私は、気づいてしまった。
スカートが…めくれている…!否!あれは…上がってきている…!
よく考えてください。こちとら季節は冬。コート着ているんだ。でも見えてる、いや見えそうなのだ。見えてはいないでもあれは、なんかわからないけど上がっているような気がする。世の男性は絶対目で追ってしまうくらいには上がっている…!
今思うと、単なる思い違いかもしれない。私があまりにもそういった場面に遭遇するため、そう思い込んでしまったのかもしれない。今となっては真相は謎である。
私は悩んだ。教えなければならない、恥ずかしいことになってますよと。クソッ!オタサーの姫みたいな服着やがって!童貞殺しのスキルか!そこの男共も鼻の下伸ばしてないで、気づけよ!
後ろを歩きながら思考を巡らす。どうする、どうするケンコウ…!
すると前から地図を片手に近づいてくる人が見えた。そう、外国人である。
私は悟る。あ、道を聞かれる、と。
めくれるスカートと外国人。地獄のコラボレーションである。
片手をあげ、こちらを見る外国人。あぁ、これは無視できない。無視したら、無視した嫌な日本人になってしまう。
しかし前にはスカートが。スカートがぁぁぁぁぁ…。
「アー、エクスキューズミー?」
「はい…」
私は祈った。彼女がどうか、救われるようにと。彼女がどうか、このまま穏やかに今日を過ごせるようにと…。
同時は初めてで、百戦錬磨の私でもそうすることもできなかった。でも、冷静に振り返ると、これは無理だよね。ていうか声をかけることも無理だった気がする。きっと最初から私の勘違いだったのだ、そう勘違いしてたのである。
こればっかりは、罪悪感など感じず、寝ようと思う。私はよくやったと、自分を褒めようと思う。
最後に、動揺から案内が適当になってしまったあの外国人の皆様は、無事観光できただろうか。良い旅になることを私は祈っている。それでは今日はこの辺で。
あなたがパンツを覗いたとき、パンツもまたあなたのことを覗いている。
みなさんこんばんは。ケンコウです。
タイトルが犯罪臭に満ちていますが、犯罪に手を染めたわけではありません。全く関係ありませんよ。
では、ブログタイトルの下に書いてある
「不健康があるから、健康でいられる」
みたいなやつについて書いていきます。
自分、「正義は悪があるから、正義でいられる。そして正義もまた悪である」
っていうやつ、大好きなんです。
この文章が好きってことではなくて、この文章の造りが好きで
「AがBの時、BもまたAである」
みたいな、逆説の文章っていうのかな、そういうのが大好きなんです。
立場を変えて見ると、見え方が変わってくるってやつ。
正義が良くて、悪は良くない、みたいなのが一般的な見解じゃないですか。アンパンマンが正義で、バイキンマンが悪。
でも、バイキンマンからしたら、アンパンマンが悪かもしれないじゃないですか。だって、アンパンマンもバイキンマンも自分が良しとしていることをしてるに過ぎないんだから。まぁ、人に迷惑をかけてるかけていないはとりあえず置いておくけど。
それに、アンパンマンはバイキンマンをやっつけるけど、やっつける相手がいないとき、アンパンマンはなんて思うだろうって思うんです。
もしかしたら、バイキンマンが存在しなければ、アンパンマンは存在し得ないかもしれない。
アンパンマンが正義の時、バイキンマンもまた正義かもしれない。
っていう、こういう多角的な見方をして、立場を変えて考えるってのが好きなんです。あぁなるほどなって思える。
それで、タイトルの件なのですが。
これもアンパンマン正義悪理論と同じだと思うんです。パンツを覗く人が悪と皆思うが、その時、覗かれたパンツもまた、覗いているのである。忘れてはいけない、パンツもまた、覗いているのである。パンツを覗く人もまた、正義かもしれない。そう、正義かも、しれない…。
こういう多角的な見方をすることは一見いい方に捕えられがちですが、そうでもないと思うんです。気づかなければ、楽だったなーって思うこともあります。
悪いことをした人がいたら、あの人が悪い!って単純に言える方がきっと楽に生きていけると思うんです。
いやでも、あの人もきっとあれが大変で、こうなっちゃったんだよって思ってしまうと、モヤモヤしてなんだかすっきりしません。もちろん良し悪しの判断はするのですが、ハッキリスッキリとまではいかない。どこか引っかかってしまう。
たくさんの見方が出来ると、人生は豊かになるとは思うけれども、使いようだなって僕は思います。この見方はどんな人にも、その人の気持ちに寄り添うことができるので、今の僕はこういう見方が出来て良かったなーって思います。
多角的な見方とは、使いどころを選んでうまく付き合っていけたらなと、私は思う。
忘れてはいけない。あなたがパンツを覗いたとき、パンツもまたあなたのことを覗いているのである。
まぁ、パンツ覗くのは悪ですけどね。
清く正しく生きましょう。それでは。
「しささる」の有能性について。
みなさんこんばんは。ケンコウです。
今日は北海道弁の「しささる」の有能性について語ろうと思う。
ちょっと前に大学時代の同級生とご飯を食べてる時に、こんな話になった。
同級生「この前職場で、間違ってパソコンのキーボード押しちゃったときに、「押ささった!」って言ったら同僚に笑われたんだよねー」
ケンコウ「あーホントに「押ささる」って方言なんだね、本州じゃ通じないんだ」
同級生は今本州で働いている。「ゴミを投げる」が、「捨てる」ではなく本当に「投げる」で伝わってしまうのはたまーに聞いたが、「しささる」について聞いたのは初めてだった。
「しささる」、例えば「押ささる」の意味だが
押すことが出来る(可能)
意図せずに、偶然押される(自発?)
これらどちらかの意味で使うことが出来る。
いや、この言葉めっちゃ便利だなって思いません?
だって、間違ってキーボードを押したときに「押ささった!」で、「あー間違って押したんだな」って通じるのに、本州だったら
「あー!全然押すつもりなかったのに、たまたま!間違って!押しちゃったー!」
って言わなきゃダメやん。
「押しちゃった!」
だったら、なんかてへぺろ感があって、こいつ意図的にやったんじゃないかって思われてもおかしくないし。誤解を生まないためにはやっぱり「あー!全然押すt(ry)」って言わないとダメか、そうなのか。
押すことが出来る、可能の意味で使うときも、「押ささる」が使えないとしたら
「押せた!」
になるわけでしょ。あれ、これは長くないね。これは別にどっちでも良かったわ。
なんにしても、「しささる」は本当に便利。「言わさる」「聞かさる」、動詞ならなんでも使えるし。北海道だけで留めておくには勿体ない。
大学の同級生にもぜひこの「しささる」の有能性を広めて、会社全体で活用して頂ければと思う。頑張れ同級生。負けるな同級生。では。
唸る朝。
みなさんこんばんは。ケンコウです。
寝起きの話をします。
私は寝起きが嫌いだ。寝るのは大好き。でも寝起きは本当に嫌いで、出来れば避けて通りたいくらい嫌いだ。
ここでいう寝起きが嫌いというのは、「朝が本当に弱くて、目覚ましの音なんてまったく聞こえないのー、てへっ」なんていう甘ったれたことではなく、肉体的そして精神的苦痛があるため、嫌いなのである。
私の朝は、悲鳴とも呼べる唸り声から始まる。唸らないと身体が動かないのだ。なぜかというと、とにかく身体が重いから。びっくりするくらい重い。たくさん寝て身体が休まったー、んー良い朝だなー、なんてここ数年感じたことが全くない。私にとって寝起きとは地獄の始まり、永遠と続く戦いの序章にすぎないのだ。
特段朝が弱いとか、目覚ましの音が聞こえないとかはなく、むしろ目覚ましぴったりに起きるし睡眠時間が全く取れない日でも、起きなければいけない時間にスッと起きることが出来る。
ではなぜ、朝そんなに唸らずにはいられないほど身体が重いのか。
理由は簡単。寝てるときめっちゃ身体に力を入れて寝ているからだ。ここでいうめっちゃはあれだよ、みんなが想像しているめっちゃよりめっちゃだから。私は道民だから、道民的に言うとなーんまら、なっっっっっまら力を入れて寝ている。
そのためか、朝起きるとき必ず右足が痺れて起きる。感覚が全くないくらい痺れているので、まっすぐ伸ばすためにもう片足で動かさなければいけないくらいだ。
正直その時点で本当に苦しい。これから一日が始まるなんて思いたくないくらい苦しい。しかし一日は始まる。足が痺れていても、今は朝。今がスタートなのだ。
痺れる足の感覚が戻るのを待ちながら、今日一日の予定考える。やらなければいけないことが山積みだ。起きねば。人間的な活動をしなければならない。
身体を起こそうと力を入れると、それはもう笑ってしまうくらい身体がバッキバキでとにかくダルい。朝だとは思えない疲労感と肉体疲労。例えるならたくさん運動して、ちょっと時間が足った後のダルさ。それに加えて寝起きの頭の回らなさ。もうダブルパンチですよ。朝から耐えられないよそんなの。
そんな身体を無理に起こさなければいけないから、そりゃ声も出るよね。「んー!んー!」って。唸り、息を吐き、身体を奮い立たせないとやってられない、だって全く起き上がれないんだもの。
起き上がったあともまたツラい。寝起きの頭を抱えながら水を一杯飲もうと洗面台へ向かうとすると、口が開かないのだ。寝ながら力を入れているので、ギュッと噛みしめているらしい。おかげで歯が擦り減ったし、顎関節症になってしまった。なので寝起きだと、まぁ口が開かない。顎が外れないようにゆっくり開けて、ようやっと開いても食事の度に顎が鳴る。小粋なリズムと高めの音で、コリン、コリンと。
口を開けると、コリン。噛むたびに、コリン、コリン。コリン、コリン、コリン。
音を聞いて、食事をしていた母が笑いお茶を吹いたことは忘れないと思う。
なんで寝て休んだはずなのに、こんなにダルいのかなーと考えてみた。多分だけど、仕事のことや職場のこと、今後の将来について無意識に考えてしまっているんだろうなって思う。不安のあまり、グッと身体に力を入れているんだろう。
考えない考えない、なんて思い込んでもどうせ考えてしまうので、ここは別の方法で安眠するしかないと考えた。
まずは寝る前にすると、身体の巡り?流れ?がよくなり、熟睡できるという呼吸法と体操を母親から叩き込まれる。寝る前にベッドの上で実践するが、どうもしっくりこない。そうだわかった、部屋の空気が淀んでいて深呼吸の度に悪い物を吸っている気になるからだ。加えて体操も、なんだか微妙な体操だなぁという曖昧な理由でしっくりこなかった。
ならばと音楽に頼ってみることにした。ほらよくあるじゃん、熟睡できる音楽とかいうやつ。さっそく3分で熟睡できる音楽とやらがあったので、それを聞きながら寝てみることにする。イヤホンをつけて準備万端。もう寝るだけだ。
結論、3分経ったかどうかが気になり、まったく寝れなかった。何分とか書いていなければ熟睡出来た気がする。大変遺憾である。
いろんなことを試してみたが、今もなお全くと言っていいほど改善されていない。毎朝足が痺れ、唸り声とともに身体を起こし、顎が鳴るのを聞きながら朝を過ごすのである。
すっきりと朝を迎える。そんな日を目指すのが私の当面の目標である。その日を迎えることが出来れば、きっと何かが変わる気がする。
そんな日を夢見ながら、今日もまた寝る準備を始めるのだ。体操と音楽と共に。
不健康で幸せに生きるには。
皆さん初めまして。ケンコウと申します。23歳会社員です。
名前はケンコウですが、僕の身体は不健康です。高校時代からオールシーズン、不健康です。
実は今、年末頃から会社を休職しています。もともと弱い身体に、激務がたたり、ついには勤務が続けられないほど、身体を壊してしまいました。
身体がもたなかった不甲斐なさと、迷惑をかけてしまっているという罪悪感。はたして身体は良くなるのだろうか。復職することは出来るのだろうかと病床に伏しながら。悶々と考える日々を送っていました。
そのときふと思ったのです。
そうだ、別に無理に健康を目指す必要はないのではないだろうか、と。
「健康になる」という、なるための明確な方法や答え、結論が出しにくい課題に対して、苦労したり、なれない自分に対して後ろめたさや憤りを感じる必要はないのではないか。むしろ無理に「健康」を目指すことで、ストレスやプレッシャーを感じ健康を害してしまうのではないだろうか。
そうだ、なら、逆に不健康に寄ってみよう。そう、逆に。
不健康に寄った、合わせた毎日を送ってみよう、身体が怠く、思うように活動できない自分を責めるのではなく、その身体に合わせて一日を送ろう。
不健康な身体を無理に改善しようとせず、不健康でもいい。不健康でありながらも、幸せで満ち足りた、幸せな毎日を送れるよう努めてみよう。
そう思ったとき、フッと気持ちが楽になるのを感じました。無理をせず、ゆっくり身体を調整していこうと思えば、気が楽になりました。
それでも、自分一人ではどうしても悶々としてしまう日があります。頭の中をグルグル、言葉にならない気持ちが駆け巡ります。
それならば、文字に起こしてみよう。文章にしてみて、客観的に見つめてみよう。よし、それならばブログを書いてみようと思い、ブログ開設に至りました。
とりあえずしばらく、変わりばえのない毎日を面白ろおかしく綴り、不健康ながら幸せに生きる毎日を記録できたらと思います。
これからお付き合いいただければと思います。では。